いけやんブログ

ロシアネタ、日々の雑感、読書感想文など。

目が覚めると鶏はまだそこにいた。

こんな夢をみた。

 

実家の部屋でくつろいでいると、ニワトリがとなりにいた。突然の出現にも関わらず、妙におちつきをはらっていた私はしばらくそいつを凝視し続けた。すると、ニワトリの首が人間の女の首にすげ変わったように見えた。幻覚だろうか。見たこともない女の顔だったが、女の顔から視線をそらし再び見返すと、元のニワトリの首に戻っていた。

 

やはりどこにでもいる普通のニワトリだ。そして例のうるさい鳴き声で急に鳴きだすから、そいつを追い払おうとした。そのとき「タベテ...タベテ...」という女の声を聞いた。自分のほかには誰もいない。いるのは目の前の一羽のニワトリだけだ。気味が悪くなって部屋を飛び出すと、そいつも後を追ってきた。ふりかえると、走って追いかけてくるニワトリの下半身がみるみる女の裸体に変身し、首まで届こうとするところで、変化は止んだ。その姿はまさに鳥人そのものであった。

 

鳥人はついに私に追いつき、身体に掴みかかりながら、何かの言葉を発しているようだったがその意味をくみ取ることができず、私は地面に押し倒され襲われた。

 

 

火曜日の朝、目が覚めてから、夢を見ていたことに安堵するとともに、夢の映像を忘れないように断片的にキーワードをメモに残して仕事に出かけました。

 

それから4日経ち、再び夢の内容を、覚えている限り文章で再構成したので、考察してみます。あくまで、ニワトリがなぜ夢にでてきたことについてだけ。女のイメージが出てきた箇所は何度考えてもわからなかったので省きます。

 

夢に見ることは過去に体験したことからやってくるものだと思います。

私たちが体験したことは、五感によって心に刻み込まれます。

 

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚

 

※味覚はこの考察では触れないことにする。

 

視覚は対象を目でみるだけ、聴覚は音を耳できくだけ、嗅覚はにおいを鼻でかぐだけなので、私たちと対象との距離が遠いぶん、一度それを体験してからふたたび心の中に現れるまで何度も繰り返さなればならない。

 

触覚は、ほかの3つの感覚にくらべて、体験した対象をじかに触ることでその存在を感じ取ることができる。子犬を直接抱くと、体温などから子犬がたしかに生きていることが分かるように。生きていると温かい。死んでしまうと冷たくなる。

 

このことを踏まえて、夢に出てきたニワトリに実在感があったのは、ニワトリの生き死にの様子を正確に覚えていたからだと考えられます。

 

今年の5月にニワトリを飼っている友人宅で、ニワトリを屠殺するのを素手で手伝い、その後の解体作業まで一部始終をみていました。そのことが強烈な体験として心に記憶され、今になって夢に現れたのだと思います。

 

その当時、いつも食べている鶏肉がどのような過程をへて私の口まで届くのか、という問いの答えを実際に体験したいという動機から、そのト殺に参加しましたが、やはりあまり気分の良いものではありませんでした。鶏肉は美味しかったけど。

 

詳しくは書きませんが、自分でほふったニワトリを食べたことで、これまでとはまったくちがう視点で鶏肉と向き合ねばならなくなったのだと、この夢を思い出してあらためて自覚しました。

 

実体験にまさるものはない。