言葉にしてしまうことの耐えられない重さ
最後にブログを更新してからはや1週間以上が経過した。この間、アウトプットをすることを怠ったわけでもなく(実際には怠った 追記: 9月11日(日))、ただひたすらロシアについて、ロシア語について、自分のしたいことについて考え、思い続けた。
近況についてごく簡単に述べると、
平日の仕事は数字や試験合格といった成果を要求されプライベートやロシアのこと(今後の自分の身の振りについて)を考えている予断もない状況といえる。が、決して悪い状況ではない。むしろこの状況を楽しんでいる。自分の持てる全てで日々の業務をこなし(適度に休みをとりつつ)反省もして自分を磨いている。
ロシア語の勉強は毎日かかさず続けている。実践で使うにはまだまだ屁みたいなレベルだが、基礎を丹念に反復して学習することを心がけている。基礎体力がなければ、この先の学習の継続も危ういからだ。
今日は
「言葉にしてしまうことの責任の重さについて」
先週の休日に野外音楽フェスや神戸のとあるカフェで、事あるごとに出会った友人や知り合い、はじめましての方々に「自分のしたいこと」「興味のあること」の思いの断片を話すことがあった。
話した内容については、以前のエントリーに書いたこと
アウトプットするようになってから、自分の思いを人にわかりやすく伝えようと意識できるようになった半面、自分の大切な思いを初対面の人にでも(尋ねられたとはいえ)話してしまえる自分の浅はかさを恥じたりもした。恥じた理由は自分自身に原因がある。前回の投稿の末尾に書いたが、最初に自分で決めた約束を守れなくて、そんな自分を言い訳で許してしまえる自分自身を恥じたのだ。
(なんてクソまじめに物事を考えるやつなんだと自分でも思う。やりたいならゴチャゴチャと御託を並べずにやればいいじゃないか!)
人に直接、自分の思っていることを話すことで、自分の考えを整理したり自分の思いの丈を再確認する。それはいい。ただ、「する」と決めたことを守れないと、自分の口から吐き出した言葉に真実味が持たせられなくなる。
一度、口にしたことには責任を持って、守れる、「本物」の大人になる。成る。
自戒